鶴舞公園(読み方:つるまこうえん)は、明治42(1909)年11月19日に愛知県名古屋市昭和区鶴舞(つるまい)一丁目に名古屋市が設置した最初の公園で、近世フランス式の洋風庭園と回遊式の日本庭園とを合わせもつ和洋折衷の大公園です。
公園は鶴舞「つるま」ですが、地名や駅名は同じ鶴舞駅と書いて「つるまい」と読みます。
サクラ、バラ、ハナショウブなどの花の名所として、また、緑豊かな憩いの場、スポーツ・レクリエーションの場として市民の皆様に親しまれています。
花の見ごろカレンダー
平成21(2009)年には公園のほぼ全域が、文化財保護法に基づく登録記念物(名勝地関係)に登録されました。
📭アクセス(住所)
〒466-0064 愛知県名古屋市昭和区鶴舞1
| 電話 | 052-733-8340(名古屋市緑化センター) |
|---|---|
| 営業時間 | 公園内自由(名古屋市緑化センター 9:00~16:30) |
| 名古屋市 緑化センター 休館日 | 毎週月曜日(国民の祝日又は振替休日の場合はその翌日) 毎月第3水曜日(祝日の場合は第4水曜日) 年末年始(12月29日から翌年の1月3日まで) |
| 問い合わせ | メールでのお問い合わせ:info@tsurumapark.info お電話での受付及びお問い合わせは、名古屋市緑化センター開館時間内にお願いします。 |
最寄り駅👣
| JR中央線「鶴舞」駅から徒歩すぐ 地下鉄鶴舞線「鶴舞」駅下車4番出口直結 |
名古屋~東京を走る中央線が開通したのは明治44年(1911)です。トンネル、橋梁の難工事で、15年の歳月を要したと言います。鶴舞駅が出来たのは意外と新しく昭和12年のことです。この駅を造る為、付近の住民達と園内の売店などで作る「鶴園振興会」が市や国に陳情した。そして、地元住民が用地約800㎡を寄付し、約2万2千円を負担し道路の新設をするという事で駅の建設許可が出た。1972年木造の駅舎は50日余りの工事で完成した。この駅が完成するまでは、中央線に常設駅は無く、大きなイベントが行われるたびに臨時駅が設けられると言う不便なものでした。当初完成した鶴舞駅の古い写真資料を見ると、「つるまひ」と書かれてありました。「愛国駅から幸福駅」の切符がブームになった頃、”金の山に鶴が舞う”と「金山駅~鶴舞駅」の切符が人気を集めたブームも今は懐かしい話となりました。
鶴舞公園の外観👓
園内マップ
🏪近くのお店 公園内にいくつか売店があります。
🚙駐車場
- 鶴舞公園駐車場(名古屋市公会堂側)
150台(入庫AM4:30~AM0:00/出庫24時間可能)12/29〜1/3休業 - 鶴舞公園秋の池駐車場
42台(入庫AM6:00~AM0:00/出庫24時間可能) - 鶴舞公園南駐車場(テラスポ鶴舞側)
92台(入庫AM4:30~AM0:00/出庫24時間可能)
下記のリンクより、現在の鶴舞公園駐車場の満空情報をご確認いただけます。
ご来園時のご参照にして下さい。
土日祝日は混雑が予想されますので、出来る限り公共交通機関をご利用ください。
- ※情報は10分ごとに更新されます。
- ※下記の満空情報は、閲覧された時点での状況です。駐車待ちの状況等により、ご入庫の際に満車となっている場合がありますのでご注意ください。
🔐コインロッカー
鶴舞駅改札外6番出口付近 15個(300円)
👜クローク なし
🚬喫煙所 なし(『周辺喫煙所マップ』からお探しください。)
鶴舞公園内には喫煙所は設置されていません。
🚻トイレ あり
🍹入場ドリンク代 なし(別途チケット)
💺キャパシティ(最大収容人数)
鶴々亭(つるつるてい)は、茶会、句会、婚礼等前撮り撮影、広告用パンフレット、WEB用写真などの撮影、撮影会などに幅広くご利用いただけます。
奏楽堂(そうがくどう)は、共進会開催を記念して、噴水塔とともに建てられたルネサンス風の円形舞台で、初代はドーム形の屋根を柱で支える西洋建築の古典的な様式を取り入れ、当時の建築界に新風を吹き込んだ。奏楽堂の設計者は鈴木禎次氏です。ここでは各種の演奏会が催されました。昭和9年に室戸台風で大被害を受けて取り壊され、昭和12年から平成7年まではデザインの異なる奏楽堂が建てられていましたが、平成9年に築造当時の姿に復元され現在は3代目です。細部には、屋根飾りのハープ、階段てすりの白鳥などアールヌーボーの手法が施されていて、ト音記号と音符がデザインされた舞台を囲む手すりには「君が代」の楽譜が配されており、復元のときには議論を呼びました。また、60年ちかく建っていた二代目奏楽堂の棟飾りのモニュメントが、北に建っています。
H21年、鶴舞公園開園100周年に当たり名工大建築学科OBが、企業など組織内で働く若手設計者を対象とした「鈴木禎次賞」を創設しました。
コンサート、前撮り撮影、撮影会、レクリエーション大会などに利用できます。建物全面をステージにする場合、一方向の場合、建物を背景に特設ステージや路上ステージで行われるいくつかのライブパターンがあります。盆踊りなどで360度パノラマステージにすると1000人以上が観覧できるエリアです。通常時は堂内立入禁止になっています。
普選記念壇(ふせんきねんだん)は、奏楽堂のすぐ西にある野外ステージで、コンサート、撮影会、レクリエーション大会などに利用できます。ベンチ 約300席と立見 約1000人が観覧でき、名古屋界隈のヲタクたちには有名な野外ライブスポットです。ステージ背景に書かれているのは、日本史の教科書に載ってた「五箇条のご誓文」です。
ステージと観覧エリアのどちらにも屋根はありませんので、雨天開催される場合は雨具が必須になります。観覧は無料でドリンク代もかかりません。ベンチは鳩&野鳥の糞で汚れてますので、レジャーシート等を使うと良いと思われます。公園内も綺麗に整備されて、飲食店も様々あり見どころがあります。すぐ近くに汚いけどトイレはあります。
岡谷鋼機名古屋市公会堂(おかやこうき なごやしこうかいどう)は、昭和天皇のご成婚を祝し、名古屋市の記念事業として大正13年1月に建設が決まり、昭和2年4月に起工、昭和5(1930)年10月10日に開館しました。令和6(2024)年4月からはネーミングライツの導入により、愛称が岡谷鋼機名古屋公会堂(おかやこうき なごやこうかいどう)となり、「市」の文字が抜けました。館内には公会堂の歴史を紹介する展示コーナーを設けており、年表や開館当時をしのぶ品もご覧いただけます。
鶴舞公園に佇むクラシカルな建造物で、1930年に開館したそうです。 緑の中に立つ公会堂は違和感なく、行き交う人々を戦前から見てきたのでしょう。 名古屋に住んでいながら眺めるだけで実際に入ったことはなかったのですが、奇遇にも健康診断の会場となったため初めて訪れました。最近はライブ会場としても活躍しています。クラシカルな内装も趣がありアーティストにも好評のようです。一階席は緩やかなスロープになっているので見やすいです。2階席の横は死角がありそうですがセンターは見やすいです。 鶴舞駅からも近くて駐車場も併設されています。 今日はグリムスパンキーライブでした。少し遅れて着きましたが会場駐車場に止められたので何とか最小限ですみました。 始めて3階席でしたがステージに近くて見易い。客席の角度が絶妙で下の階の人が見えずに直接ステージと連続している錯覚になります。地下の食堂が無くなっていたのは残念でした。たまにある無料ツアーでは貴賓室が見られます。
🏟4階ホール
基本型 576人(机、椅子使用時)
最大 780人(椅子のみ使用時)
机・椅子移動可
4階ホール座席レイアウト
🏟1階 大ホール
1,552席<別に車椅子用(1階)10台分>
1階 842席
2階 400席
3階 310席
大ホール座席表
噴水塔(ふんすいとう)は、ヨーロッパ様式の重厚な造りで共進会会場の正面につくられた、(設計者は奏樂堂と同じ鈴木禎次工学士)、その後、公園のシンボルとして永く市民に親しまれてきたものです。地下鉄鶴舞線の建設工事に伴い昭和48年に解体されましたが、同52年に築造当初の姿に忠実に復元されまた。この噴水塔は、大理石の円柱に岩組を配した和洋折衷の明治調を良く表現し、全体としてはローマ様式の変化のある豊かな水景を形ずくっています。
この下は名古屋市内を縦横無尽に走る地下鉄が毎日運行しているのですが、静かにたたずめば、音や振動が感じられるでしょうか?
鶴舞中央図書館(つるまちゅうおうとしょかん)は、大正12年(1923)開館の歴史がある図書館です。戦災で焼失後、昭和27年に再建され、昭和59年に近代設備充実の新館に改築されました。公立図書館では、わが国有数の蔵書量を誇っています。また、図書だけでなく、ビデオ、カセット、CDの貸出、「市民の不用図書リサイクル会」もやっています。火~金は夜8時まで開いていますので、勤め帰りでも利用できます。夏休みも終わり頃になると、図書館の前に行列が出来ます。宿題を涼しい図書館で仕上げようという作戦です。
吉田山
現在野球場のある丘陵地は、もと名古屋区長(市政以前のこと)吉田禄在の所有地でした。共進会の際に寄付され、ここに金閣寺そっくり模した迎賓用の「聞天閣(もんてんかく)」がたてられました。
その後、国宝猿面茶屋や松月斎、美術館などもたてられましたが、戦争ですべて失われてしまいました。戦後屋外スタジアムがつくられましたが、昭和34年の伊勢湾台風で大被害を受け取り壊され、昭和39年からは野球場として使われています。
四阿(あずまや)の北にある階段に楔形の模様があります。見逃しそうですが、昔の美術館の入り口部分が残っています。また、吉田山では聞天閣貝塚も発見されています。
戦前の聞天閣
⏰イベントスケジュールとチケット情報🎫
名古屋の歴史は ココ鶴舞公園から始まった
鶴舞公園は名古屋市が整備した最初の公園だ。
広い公園がほかにはない時代、ここで博覧会が開かれ、電車焼き討ちや米騒動の時には市民が集まり、図書館や動物園もここで誕生した。名古屋の歴史の表舞台となった公園である。
当時の写真を見ながら振り返ってみる
鶴舞公園は名古屋市が整備した最初の公園である。明治39年(1906)12月に御器所村に公園設置が決まった。
建設予定地のほとんどは田圃だったが、ちょうどその頃は新堀川の開削事業が行われており、その掘削土で40年(1907)8月に公園予定地の盛り土を始めた。
ちなみに新堀川開削で掘削土は約12万5000坪(坪=立て坪=6尺立方)発生し、熱田の兵器製造所盛り土に4万3000坪、鶴舞公園盛り土に約4万坪、築堤や道路の築造に約2万5000坪、残りを公園道路(共進会場への道路)などに使用している。
その後、関西府県連合共進会が開催され、終了後に公園としての設備を整備していった。
設計は林学の権威で日比谷公園などの設計をした本多静六や、名古屋高等工業学校(現:名古屋工業大学)の建築科教授である鈴木禎次(禎二)などが担当している。
『名古屋市実測図』 明治43年
公園の整備を進めているなか、明治41年(1908)2月に名古屋で関西府県連合共進会(博覧会)を43年(1910)に開催することが決まり、公園全域をその会場に充てる事となった。
翌3月になると再度盛り土事業が始まり、4月には来客の便を図る道路整備も始まっている。11月には道路整備が終わり、公園の名が鶴舞公園に決まった。42年(1909)に公園の区域は御器所村から名古屋市へ編入されている。
明治43年(1910)3月16日から6月13日までの90日間、共進会が開催された。
主催は愛知県で、名古屋市も43年(1910)に開府三百年記念祭を計画していたので協力した。
共進会の名前は「関西府県」だが、出展者は広範囲にわたっており、九州と東北の6県、および北海道を除く日本全国の博覧会であった。
開催に向けて「開府三百年記念会」が有志によりつくられ、名古屋市の補助金と有志の拠出金により、正門前に噴水塔、入ったところに奏楽堂(共に鈴木禎次設計)、その外に貴賓館や演舞場を建設した。現在、噴水塔と奏楽堂は景観法による景観重要建造物に指定されている。
会期中には皇太子(後の大正天皇)や韓国皇太子などの巡覧もあり、入場者は260万人という盛況であった。
共進会が終ってしばらく経った明治43年(1910)10月になると、県が公園の一部を愛知県病院と医学校(現:名古屋大学医学部と病院)の建設の為に売却するよう求めたが市議会はこれに反対。
県は土地の収用を告示したのでやむを得ず11月に市議会は応諾し、公園の区域は縮小された。
愛知県病院
明治44年(1911)5月には中央線全通記念式が鶴舞公園で開催された。逓信大臣を始めとする3,000人が出席する大イベントである。
公園正門前に大緑門を建て36の模擬店が並び、記念橋や納屋橋には緑葉の飾りを付けるなど、全市がお祭りムードで盛り上がった。
大正3年(1914)9月6日、路面電車を運行していた名古屋電気鉄道の糾弾市民大会が鶴舞公園の広場で開催された
名古屋の路面電車は明治31年(1898)に笹島から久屋町まで開通したのをかわぎりに順次延伸され、この頃は総延長が42.5㎞にもなっていた。
便は良くなったものの乗車料金は区間制の為、長距離だと非常に高額になり人々に不満が溜まっていた。 9月6日に会社糾弾市民大会が開催され、1万数千人が参加し、終了後に群衆は名古屋電気鉄道に向かい、その後3日間にわたり電車や駅など襲い破壊し焼失させ、軍隊が出て鎮圧した。
焼き討ちされた柳橋駅ホーム
鶴舞図書館からグランドの南にかけて、かつて動物園があった。
この動物園には、民間動物園の前身がある。明治23年(1890)に、今泉七五郎が前津町(後に大須門前町へ移転)で収集した動物を展示する「浪越教育動植物園」を開業し、通称「今泉動物園」と呼ばれていた。
ここの動物、虎・熊・鰐など481点が市に寄付され、大正7年(1918)4月1日に「鶴舞公園付属動物園」〔昭和4年(1929):市立名古屋動物園に改称〕が開業した。
細長い3,650坪(1.2㏊)ほどの狭い敷地であったが、動物や施設が徐々に充実し250種800点を展示した。また、動物祭や世界動物探検博覧会などのイベントも行なわれ関心を集めた。入場者は、初年度は54万7000人余で、年により増減があるものの昭和9年(1934)から11年(1936)は毎年63万人を超える盛況であった。
手狭な施設の移転が必要となり、市は昭和7年(1932)、現在の東山公園の地に広大な動・植物園をつくる構想を発表し、10年(1935)に東山公園が開園した。
翌年から動物園の施設を整備し、鶴舞から動物が移送されて12年(1937)3月24日に東山動物園が開園し、鶴舞公園の動物園は閉園になった。
『大名古屋市街全図』 大正11年
唯一残る 動物園の遺構 通用門
大正7年(1918)8月、米価の高騰に不満を持つ市民が、多いときには70,000人も鶴舞公園に集まり、都心に向かう途中で米屋などを襲撃し、軍隊が出て鎮圧した。
シベリア出兵を機に米価が高騰し人々は困窮していた。そんななか7月23日に富山県魚津市で米の積み出しをしようとしていた船を漁師の女将さんたちが阻止した。新聞で報道され、全国に米騒動が広がっていった。
名古屋では8月9日の夜、鶴舞公園の噴水周辺に3~400人が集まり政府や米屋への不満を話していた。
翌10日になると、米価に関する市民大会が鶴舞公園で開催されるという噂が広まり、夜には10,000人もの人が奏楽堂周辺に集まってきた。その内数千人が米穀取引所のある米屋町(現:泥江町交差点北西)に向かい、途中で知事公舎などに投石したが米屋町の手前で警察署長の説得により解散した。
11日には70,000人もが公園に集まり、その一部が米屋町へ向かった。米屋町の手前では警官隊が非常線を張っており、群衆は瓦礫を投げつけ警官はサーベルを抜いて立ち向かう事態になった。
12日には公園に4~50,000人が集まり、米屋などを襲撃しながら米屋町へ向かった。この日は軍隊が出動し一進一退の攻防が繰り広げられたが、深夜になると沈静化した。
13日は、集合場所になっていた奏楽堂周辺を憲兵などが取り巻いて近づけないようにしたが、20,000人の群衆が公園に集まり10,000人が市街に向い米屋や交番などを襲撃した。
14日になると全国で米騒動が広がっているので、内務大臣は新聞へ騒動に関する記事の掲載を差し止めた。このため詳細な記録は残っていないが、16日まではある程度の人数が公園に集まったという。
※人数等は、当時の『新愛知』(中日新聞の前身の一つ)による
八幡山古墳は直径82m、高さ10mの円墳で、幅10m以上の周濠があり、円墳としては東海地方で最大である。5世紀前半にこの地方を支配していた豪族の墓とみられている。
大正8年(1919)に鶴舞公園に編入され昭和6年(1931)に国の史跡に指定された。
江戸時代の『御器所村絵図』には「八幡山 御除地」と書かれ、鳥居のマークがある。八幡社を祀る神社があった事から八幡山と呼ばれていた。
このあたりは御器所台地の西端で、この他に名古屋工業大学校内に直径36mの一本松古墳(現況は円墳状だが前方後円墳とも言われている)もある。
東京では大正9年(1920)に上野公園で最初のメーデーが開かれたが、名古屋では翌10年(1921)に2人の活動家が鶴舞公園正門で『労働運動』という機関紙を売ったものの、尾行の警官により退去させられ不発であった。
その2年後の大正12年(1923)5月1日、名古屋で初めてのメーデーが鶴舞公園で開催された。
集会後、500名余の労働組合員が300名の警官に囲まれて、鶴舞公園から上前津・栄を通り那古野神社までデモ行進をした。
名古屋市立図書館は大正天皇の御大典記念事業として建築され、大正12年(1923)10月1日に開館した。
市立の図書館ができた事で、それ以前、明治20年(1887)に名古屋教育会が鶴舞公園の竜ヶ池に設置した書籍室(後に名古屋図書館に改称)があったが、蔵書を市立図書館に譲渡し大正12年(1923)12月に閉館している。
また、明治期に中区大津通一丁目で私立の図書新聞雑誌縦覧所(後に名古屋通俗図書館に改称)が開館していたが、昭和6年(1931)に閉館した。
市立図書館の蔵書は、開館した年は48,000冊余であったが、年々増加し、昭和12年(1937)には144,000冊余になっており、平成29年(2017)時点では1,300,000冊(市の図書館全体では3,270,000冊)を所蔵している。
昭和20年(1945)3月19日の空襲で全焼したが、翌年5月にバラック建てで再開し、27年(1952)に鶴舞図書館に改称、34年(1959)に新館が完成し、39年(1964)に鶴舞中央図書館に再改称している。現在の建物は昭和59年(1984)に改築したものである。
加藤高明は愛知県出身で初めて内閣総理大臣になった人物である。
万延元年(1860)1月に佐屋代官所で手代(一説には足軽)を務めていた、尾張藩士服部重文の二男として誕生。加藤は養子先の姓である。
その後一家は名古屋へ転居し、父親は巡査になっている。
高明は洋学校(現:旭丘高校)を卒業後上京し、明治14年(1881)に東京大学法学部を卒業して三菱に入社。20年(1887)に官界入りして駐英公使などを歴任、33年(1900)に外務大臣となった。政界で活躍し外務大臣を前後4回、男爵(没後:伯爵)に列せられ、衆議院・貴族院議員を務めた。
大正13年(1924)6月に総理大臣に就任、普通選挙法を成立させたが併せて治安維持法も制定している。在任中の15年(1926)1月に亡くなった。
没後の昭和3年(1928)6月に有志により銅像が建てられた。
像は朝倉文夫が製作し、高さは16尺(4.8m)あり台座も含めると42尺(12.6m)という巨大なものであった。太平洋戦争中の昭和19年(1944)に金属供出で失われ、台座だけが現存している。
今も残る加藤高明銅像の台座
普選記念壇は普通選挙制度が施行された事を記念し、昭和3年(1928)に名古屋新聞社(現:中日新聞社)が中京新報社から改称して20年記念にあたって建設し、市に寄付した。
なお、この年2月に初めて普通選挙が実施され、併せて3月には普通選挙法と同時に成立した治安維持法違反で共産党関係者1,568人が検挙されている。
壇の正面に大きく五箇条の御誓文がレリーフされ、左手にその英訳、右手には建設の趣旨が表示されている。
裏面には「顧問 文学博士坪内雄蔵 設計 工学博士佐藤功一」とある。坪内雄蔵は名古屋で少年時代を過ごし、早稲田大学の教授などを務めると共に近代文学や演劇を育んだ坪内逍遥の本名である。佐藤功一は早稲田大学や日本女子大学の教授等を歴任し、大隈講堂や日比谷公会堂などの設計をした建築家である。
戦前と今もほとんど変わっていない普選記念壇普選記念壇
昭和3年(1928)9月15日から11月30日までの77日間、御大典奉祝名古屋博覧会が開かれた。
昭和天皇の即位礼が、昭和3年(1928)11月10日に京都で行われる事になり、それに合わせて奉祝の博覧会を開催するというのが建前だが、一方では不況に苦しむ経済の回復を図るのが主目的であった。
第一次世界大戦中の日本は戦時バブルで好況だったが、大正7年(1918)に終戦を迎えヨーロッパ経済が復興し始めると戦後不況に陥った。なかなか回復しないなか、12年(1923)には関東大震災で首都東京が壊滅的な打撃を受け、昭和2年(1927)には金融恐慌が起きて取り付け騒ぎとなり、台湾銀行の休業や、総合商社の鈴木商店が倒産するなど暗い空気に包まれていた。このような時代背景のなか、産業振興を図ったのである。
主催は名古屋勧業協会で、名古屋市と名古屋商工会議所が後援をし、国や他府県の応援もあった。37府県から出品があり、本館・機械館・農林館・電気館のほか、朝鮮・台湾・北海道・関東庁は特設館を設けている。
会期中に1,940,000人の入場者があり、盛況のもと終了した。
博覧会場の空撮
名古屋市公会堂は昭和天皇のご成婚(大正13年1月)記念事業として建てられ、昭和5年(1930)9月30日に竣工した。
鉄筋コンクリート造りで地上4階地下1階建で、その頃流行した近世復興式という、古典的様式に近代の新しい様式を加味したデザインになっている。
戦時中は防空部隊の司令部が置かれ、戦後は進駐軍の娯楽・厚生施設になっていたが、昭和31年(1956)に市の管理に戻された。
何度か改修され、現在は1,562席の大ホールを始めとして最大780人収容の4階ホール、7つの集会室などを備え、各種の大会や会合、コンサートなどのイベントに使われ、登録有形文化財、景観法による景観重要建造物に指定されている。
臨時駅としては、昭和3年(1928)9月6日から御大典奉祝名古屋博覧会開催に合わせて設置されたが、終了と共に12月1日に廃止された。
正式の駅としては、昭和12年(1937)4月21日に開業している。
中央線の名古屋駅と千種駅は明治33年(1900)7月の名古屋~多治見開通とともに開業している。また大曽根駅は44年(1911)4月開業なので、鶴舞駅は相当遅れて設置された。
駅ができたのは、公園一帯の発展を図る為に昭和10年(1935)に設立された鶴園(ママ)振興会が、駅の土地と基金を鉄道省に寄付したことによる。
なお、金山駅はさらに遅い昭和37年(1962)1月、新守山駅は39年(1964)4月の開業である。
なお、地下鉄鶴舞駅は昭和52年(1977)3月18日に、鶴舞線の伏見~八事の開通とともに開業している。
