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【座席表予想図】吹上たたらば

鑪ら場(読み方:たたらば)は、愛知県名古屋市吹上にありますライブスペースで、小さいお店ですがとても良いです!

鑪(たたら)とは祟り(たたり)のことではなく、足で踏んで空気を送る大形のふいごのことで、日本刀などを製鉄する場所にあったことから「たたらば」と呼ばれたのが所以とされています。詳しく知りたい方はページを最後までご覧ください。


出演希望や、持ち込みイベント(音楽、演劇、展示、映像、ゲーム大会等々おもしろそうな事)受け付けています!

2014年10月より新しくオープンした小さなライブスペースで、たくさんのライブハウスがあるこの名古屋で、このコンセプトを維持し続けていくということは、非常に大きな挑戦です。

お店は全力で良いイベントを作っていきます。
あとは私達のこの想いが皆様に届き、出演者にも、観に来られたあなたにとっても、
素晴らしい空間になることを願っております。

最寄駅はJRなら中央本線の千種駅、地下鉄なら吹上駅です。歩く距離少なくてよいのは地下鉄吹上駅です。マンションの地下1階にあるお店です。物件住民や近隣住民、店舗の迷惑とならないように並ぶ時間に注意が必要です。開場15分前からお店の前に並べます。お店の雰囲気はとても良いです。一般的なライブハウスの 暗い、汚い という印象とは真逆の、明るくて清潔感溢れるライブハウスです。一階席とロフトの二階席があります。2人掛けの席は2人連れ客優先で、席移動や相席になる場合もあります。こじんまりとまとまっていて音響も良いです。ドリンクやフードも充実しておりとても美味しいしリーズナブルな設定でお客様目線です。アップライトピアノがありピアノ弾き語り、ギター弾き語り、アコースティック系のライブが多いです。店内でタバコを吸えるスペースもあります。入り口付近。苦手なかたは入り口から離れた席をお勧めします。


📭アクセス(住所)

〒464-0858
名古屋市千種区千種3-29-8 ライフステージ吹上B1階

問い合わせ
tel.080-5245-3104(高橋)
お問い合わせフォームはこちら
※ライブ営業中は電話に出られない場合がございます。

名古屋市市営地下鉄桜通線「吹上駅」より徒歩5分👣

行き方

🚙駐車場 なし(『駐車場コインパーキング検索』からお探し下さい)

🔐コインロッカー なし

👜クローク なし

🚬喫煙コーナー 入口付近 

🍹入場ドリンク代 600円程度(別途チケット)

名古屋鑪ら場の外観👓


💺キャパシティ(最大収容人数)

約20席



⏰イベントスケジュールとチケット情報🎫

ライブバー 名古屋 鑪ら場のイベント

「たたら」の発祥と発展

 「たたら製鉄」――それは、日本で千年余にわたって受け継がれてきた伝統的製鉄法です。

 古来人々は、山や川、海から採れる砂鉄を原料とし、木炭の火力を用いて製錬することで鉄を得てきました。先人達は製鉄技術に様々な改良を重ね、日本独自の製鉄法までに昇華させました。これが日本固有のたたら製鉄――「たたらき」です。

「たたら」の語源

 「たたら」という文字は、『古事記』(712年)に「富登多々良伊須々岐比売命ほとたたらいすすきひめのみこと」、『日本書紀』(720年)では「姫蹈鞴五十鈴姫命ひめたたらいすずひめのみこと」と出てくるのが初見です。

 「たたら」には「蹈鞴」と「鑪」、2つの用法が認められます。

 「蹈鞴」は製鉄炉に風を送る鞴自体を指すもので、平安時代の『倭名類聚抄わみょうるいじゅしょう』などに見られます。

 もう一つの「鑪」は、近世の文書などに見え、鞴だけではなく製鉄場全体を指して用いられるようになりました。また、たたらを「高殿」と記している例もあり、これは製鉄炉を覆った建物を指すものです。

 そして現在では、「たたら製鉄」のように、製鉄技術全体を含む、より広い意味で用いられるようになっています。

日本の「たたら製鉄」技術の変遷

箱形はこがた炉による砂鉄製錬技術

 古代の鉄生産は、中国地方はもとより、東北、関東、北陸、近畿、九州など各地で行われました。中国では、はじめ原料には鉄鉱石が使われましたが、砂鉄の使用が始まると箱形はこがた炉による製鉄が行われるようになります。一方、関東や東北などでは砂鉄が原料でしたが、箱形炉に加えて竪形たてがた炉も数多く確認されています。鉄生産は、中国と東北の一部では古代・中世・近世と継続しますが、その他の地域では鎌倉時代までには姿を消してしまいます。

製鉄炉と地下施設(地下構造)の改良・発展


 炉の大型化は、地下施設の大型化と不可分の関係にあります。大型炉で高温操業を安定して行うためには地下から上がってくる湿気を防ぎ、炉内温度の低下を防ぐ地下施設の大型化も進められました。近世では、炉の直下に木炭を敷き詰めた「本床ほんどこ」と、炉の両側にトンネル状になった「小舟こぶね」と呼ばれる地下施設(「床釣とこつり」)が設けられました。

 このように、操業を安定させるため地下施設の工夫が重ねられたことと、風量の確保のための送風装置の改良により、炉の大規模化が可能となっていきました。

天秤鞴てんびんふいごの登場

「たたら製鉄」の終焉と復活

 古来独自の発展を遂げてきた日本のたたら製鉄は、鉄の需要が高まった幕末から明治初期にかけて最盛期を迎えます。しかし、この時期は、同時に西洋から当時先進の製鉄・製鋼法が流入した時期でもありました。従事する人々の技能と伝統的知見に強く依拠した「手工業」的色彩の強いたたら製鉄は、量産性の高い「工業」としての西洋式製鉄・製鋼法の前に衰退の一途を辿ることとなります。そして、大正時代おわり頃に最後のたたらが廃業したことに伴い、日本のたたら製鉄はその歴史に幕を下ろしました。

 たたら製鉄は、太平洋戦争による軍刀需要などで一時的な復活はあったものの、長年にわたって途絶していました。しかし、昭和52(1977)年、日本刀の原料としての和鋼が払底したことに伴い、日本美術刀剣保存協会にっぽんびじゅつとうけんほぞんきょうかいが文化庁の後援のもと「日刀保にっとうほたたら」を創設、以来今日まで現存する唯一のたたら製鉄として日本刀材料としての玉鋼を供給し続けています。

 日本のたたら製鉄は復活したのです。

「たたら」の種類

「たたら製鉄」の2つの方式――「ずく押し法」と「けら押し法」

 「たたら製鉄」は、大きく2つの方式によって行なわれました。
 銑鉄せんてつをつくることを目的としたずく押し法(4日押し法)」と、鋼をつくることも可能なけら押し法(3日押し法)」です。

銑押し法(4日押し法)――間接製鉄法

鉧押し法(3日押し法)――直接製鋼法的製鉄法

 たたら操業により製鉄炉の中にできる塊はけらと呼ばれます。鉧押し法による鉧の中には鋼ができました。鋼は叩いたり伸ばしたりして鍛えることができる上、焼きを入れて硬くすることができるので、日本刀をはじめ、刃物、工具などに用いられてきました。鉧押し法では、鋼のみができるわけではありませんが、精錬工程を経ることなく鋼ができる点では直接製鋼法的な製鉄法ということができます。

 鉧押し法は、銑押し法と同様1回の操業に4昼夜を要しましたが、後の技術改良により3昼夜に短縮されました(3日押し法)。

原料砂鉄の違い――「赤目あこめ砂鉄」と「真砂まさ砂鉄」

 これら2つの異なる方式のたたら製鉄では、それぞれ用いる砂鉄も異なります。砂鉄は、二酸化チタンの含有量により、赤目あこめ砂鉄」真砂まさ砂鉄」に大別されます。
 このうち赤目砂鉄は、真砂砂鉄に比べて二酸化チタンの含有量が多く、広範囲に産出することから、銑押し法の原料として各地で多用されました。
 一方、真砂砂鉄は二酸化チタンが少ない原料ですが、山陰側の一部に産出地が限られています。鉧押し法にはこの真砂砂鉄が不可欠で、これを産出する出雲地方(現在の島根県東部)で鉧押し法が発達する一因となりました。

銑押し法(4日押し法)・鉧押し法の比較

分類ずく押し法(4日押し法)けら押し法(3日押し法)
稼働地域東北~九州、中国山地南側など主に出雲地方(現在の島根県東部)と伯耆(鳥取県西部)
工程による分類間接製鋼(製鉄)法
(銑鉄を作り、大鍛冶場で割鉄に加工)
直接製鋼法的製鉄法
(鋼を含んだ鉧ができる。銑・歩鉧は大鍛冶場で割鉄に加工)
操業1回あたりの日数4昼夜4昼夜(後の技術改良により3昼夜)
鉄原料赤目あこめ砂鉄真砂まさ砂鉄
歩留まり砂鉄16.5t・木炭17tから銑鉄4.8t程度砂鉄13t、木炭13.5tから鋼1.13t、鉧1t、銑1.6t程度

「たたら」が生み出す鉄の分類

銑鉄(銑)――鋳物鉄と包丁鉄

 炉の中で砂鉄が還元された鉄のうち、炭素を多く含むものが「銑」です。銑は脆いため叩くと割れるため、このままでは鍛えることはできません。一方で、溶けやすく流動性が高いことから型に流し込んで鍋や釜などの鋳物を作るのに適しており、鋳物鉄いものてつと呼ばれます。
 ただし、たたら吹きで多量に生産される銑のうち鋳物材料になるのは一部で、多くは大鍛冶場で鉧から鋼を取った残りの歩鉧ぶけらとともに加熱され、脱炭・鍛錬を重ねて割鉄わりてつとなります。割鉄は包丁鉄ともいい、普通の鉄素材として、工具、農具など様々な道具が作られました。割鉄の値段は鋼よりも高く、出荷高の大部分を占めていました。

粗鋼――鉧、玉鋼たまはがね

 操業終了後に炉底に残った粗鋼の塊が「鉧」です。
 炉から取り出し冷却された鉧は、どうと呼ばれる施設で粉砕され、品質により玉鋼たまはがね目白めじろつく、歩鉧などに分別されました。中でも良質の玉鋼は、日本刀をはじめとする刃物に用いられました。

 玉鋼は1~1.5%程度の炭素を含む高純度の鋼で、刃物に最適な物性を持っている上、わずかに含まれる不純物が折り返し鍛練によって微細化・分散化することで、刃物鋼に求められる粘り強さ、研ぎ性といった性質をかえって向上させているようです。
 玉鋼、特に最上級のものは日本刀の作刀に不可欠であり、今日では島根県奥出雲町の日刀保にっとうほたたらが唯一これを生産し、全国の刀匠に供給しています。

「たたら」のしくみ

 「たたら操業」による鉄づくりにおける、操業開始から終了までの1操業を一代ひとよと呼びます。けら押し法は一代を3昼夜で行なうことから「3日押し法」といわれます。鉧押し法における一代の工程の概要は次のとおりです。

日刀保にっとうほたたら」の実際のたたら操業

たたらの炉と地下構造

地下構造

 大型の製鉄炉で安定して高温操業を行うためには、防湿・保温を強化する必要がありました。そのため炉は床釣とこつりと呼ばれる地下の構造物を伴っていくこととなります。

 床釣の底には砕石・砂利・真砂土を順に敷き詰めた上に粘土の層を作ることで、断熱とともに地面からの湿気を遮断しています。この粒度の異なる石・砂の層構造により、地下からの湿気・湧水を最下層に設けた排水溝に流すとともに、炉が水分の影響を受けない構造を実現しています。
 炉床(炉を設置する場所)は木炭・灰を突き固めて作られ、本床ほんどこと呼ばれます。本床は、下の粘土層とともに、炉への湿気を完全に遮断する役割を担っています。
 また、本床の両側には小舟こぶねと呼ばれる空間が設けられています。小舟は、熱伝導率の低い空気の層による断熱(炉の保温)効果を得るとともに本床の湿気を逃がす役割を担っています。
 床釣は、近世には深さが3mにも及ぶ大規模なものとなり、一代ごとに築かれ壊される炉に対して、床釣は定期的な補修作業を施しながら繰り返し使われました。

 経験をたよりにこのような複雑、かつ理にかなった地下構造をあみ出していた先人の智慧は驚くべきものです。

たたら操業の正否の鍵を握る「村下むらげ

中国地方の「たたら」の特徴

 中国地方では、古墳時代後期から箱形炉による製鉄が一貫して続けられ、おそらく室町時代には国内随一の鉄生産地に成長したとみられています。しかし、その製法は、古代の製鉄がそのまま発展したものでなく、古代末期から中世に進められた技術改良の積み重ねを経て確立されていったものです。なかでも今日まで奥出雲に受け継がれているたたら製鉄は、この地特有の自然条件と先人の試行錯誤によって形づくられた、日本独自の砂鉄製錬技術の完成された姿といえます。

中国地方における製鉄遺跡の概要

11世紀から16世紀頃まで――中国山地周辺、石見・出雲に移動

 これに対して、11世紀以降16世紀ころまでの製鉄遺跡は、石見、出雲、伯耆、安芸あき(現在の広島県西部)、備中、美作、播磨で多数確認されています。それまで大半を占めていた吉備においては、備前と備中南部から製鉄遺跡が全く姿を消し中国山地の備中北部と美作に限られる一方、現在の島根県にあたる石見・出雲地域が多くを占めるようになります。
 たたら製鉄の生産地の移動は、原料との関係がうかがえます。すなわち、古代における初期の製鉄では原料として鉄鉱石と砂鉄が併用されていたのに対し、古代末から中世に山陰と山陽北部に生産地域が移ってからは砂鉄のみが用いられていることです。

鉄穴流かんなながし・たたら炭

 近世たたらでは、鉄穴流かんなながし」という製法によって砂鉄を採取しました。

 鉄穴流しとは、まず、砂鉄を含む山を崩して得られた土砂を、水路で下手の選鉱場まで流します。この土砂の採取場を鉄穴場かんなばと呼びます。鉄穴場は、切り崩せる程度に風化した花崗岩かこうがんが露出していて、かつ水利のよい立地が必要でした。水路を流れ下った土砂は選鉱場に流れ込み、比重の大きい(重い)砂鉄と比重の小さい(軽い)土砂に分離します(比重選鉱法)。鉄穴流しでは、大池おおいけ中池なかいけ乙池おといけの4つの池での比重選鉱を経て、最終的には砂鉄の含有量を80%程度まで高めて採取しました。

 また、たたら製鉄には、砂鉄の他に、大量の木炭の確保が不可欠でした。1回の操業に、たたら炭約15t前後、森林面積にして1.5ha分の材木を使ったと考えられています。したがって、たたら経営には膨大な森林所有が条件でもありました。

 たたら製鉄が中国山地で盛んになったのは、これらの条件を満たす地域であったからです。この地域は今日でも、棚田や山林などの景観に、たたら製鉄の面影を認めることができます。

近世には生産量日本一となった奥出雲地方

 奥出雲地方は、良質な真砂砂鉄を採取することができることに加え、豊富な山林資源から燃料となる木炭の調達も容易であるといった条件に恵まれていました。近世になると、「高殿たかどの」=製鉄設備を覆う大型建物が設けられ、大型製鉄炉・天秤鞴・床釣が整備されたことにより、鉄生産量が大きく増えました。

 この高殿で連続操業する大規模なたたらを「高殿たたら」あるいは「永代えいだいたたら」と呼びます。江戸時代後半には「高殿たたら」が出現したことで、島根県を含む中国山地一帯の鉄の生産量は最盛期には国内総生産量の大半を占め、中でも奥出雲地方は日本随一の生産地となりました。

 「鉄穴流し」による砂鉄採取量の増加や生産施設の大型化に伴い通年操業も可能となり、また操業日数を1日短縮する「3日押し法」への転換も図られたことで、生産量は従来より約3割増加したと考えられています。和鉄生産高が最高となった明治18年(1885)には、中国地方が全国の約96%を占め、そのうち奥出雲地方(旧島根県仁多郡・飯石郡、現在の奥出雲町・雲南市)は46%を占めるまでとなりました。

「たたら製鉄」の進歩

 日本列島においての人々と鉄との出会いは、弥生時代中期ごろと考えられています。弥生時代中期後半には、鉄素材を輸入に頼りながらも、国内で原始的な鉄器の生産が開始されました。

出雲国風土記いずものくにふどき』に登場――鉄の生産で広がる集落

古代のたたら――箱形炉・砂鉄製錬のはじまり

中世のたたら――製鉄炉の大型化

中世末から近世たたら
――鉄穴流かんなながしによる砂鉄の安定供給と天秤鞴てんびんふいごがもたらした生産拡大

 中世末になると、山を崩しての鉄穴流かんなながしによる砂鉄採取も行われ、それらは次の高殿たかどのたたらによる企業的な量産への下地となっていきます。そして、17世紀末の元禄年間には、たたら製鉄の画期が訪れます。それは天秤鞴てんびんふいごの発明です。

 大規模な操業には送風量の増強が不可欠であり、天秤鞴は瞬く間に普及、たたら製鉄における鉄の生産量・質の向上に大きく寄与することとなりました。

近世たたら――高殿たかどのたたらに伴う「山内さんない」の形成

 高殿たかどのとは、炉を中心とした製鉄設備を覆う建屋のことをいいます。

 高殿たたらとして大規模な施設による恒常的な操業が可能となったことに伴い、山内さんないと呼ばれる技術者集団の集落が形成されました。

 高殿たたらは、4本の柱(押立柱おしたてばしら)を持ち大きいものでは10間(約18m)角にもなりました。屋内には木炭と砂鉄が山積みされ、壁寄りには各職人の座も設けられました。高殿の中央には長さ10尺(約3m)ほどの箱形炉を据え、両脇の鞴からそれぞれ20本程度の送風管を炉に入れました。また、炉の防湿・保温のために、木炭が詰まった炉床(本床ほんどこ)の両脇にトンネル状の空隙(小舟こぶね)をもつ「本床釣ほんどこつり」と呼ばれる地下構造もできました。

 当時の高殿たたらは現在雲南市吉田町の「菅谷すがやたたら」に現存している他、各文化館では再現模型などによりその特徴を見ることができます。

明治~昭和――角炉による砂鉄製錬

 我が国の洋式製鉄は、安政4年(1857)の大橋おおはし一番高炉(岩手県釜石かまいし市)の完成に始まり、明治27年(1894)には洋式高炉で生産される銑鉄がたたら製鉄による生産量を上回ります。この時期、たたら製鉄においても、送風施設や鍛冶作業の動力化、角炉の開発といった生産性向上のための取り組みが行われました。

 角炉とは耐火レンガを用いて高く築いた炉で、原料に砂鉄(または大鍛冶滓)、燃料に木炭を用い、従来のたたら製鉄に洋式高炉の技術を取り入れたものといえます。

 伝統的たたら製鉄が大正時代に途絶した後も、角炉は特殊鋼の原料となる木炭銑を供給し続け、昭和40年(1965)まで操業されました。

 たたら角炉伝承館(奥出雲町)では、櫻井家が経営していた槙原まきはらたたらに昭和10(1935)年に建設された角炉と周辺施設を修復し展示しています。

たたらの構造の変遷と伝播――時代や地域で多様な構造を持つたたら

「たたら製鉄」の衰退と復活

「出雲鉄」の隆盛と衰退――伝統的製鉄の爛熟期

「たたら」の復活――日刀保にっとうほたたら

 「たたら」の代名詞ともいえる日本刀にほんとうは、日本が世界に誇ることのできる鋼の工芸品です。その作刀には、日本古来の製鉄法であるたたらによって生産される和鉄、中でも良質な鋼である貴重な玉鋼たまはがねが不可欠です。

 玉鋼は、たたらで得られたけら(粗鋼塊)を破砕し、特に不純物の少ない良質の部分だけを取り出したものです。
 玉鋼は純度の高い炭素鋼でもともと刃物に適していますが、これに折り返し鍛練を施すことで、含まれる不純物が排出されるとともに適度に分散介在し、刃物とした際の粘り強さを与える、研ぎ性を高めるなど刃物鋼としての性質を向上させ、また微妙な肌模様を作りだすことで刀の美しさにも寄与していると考えられています。

 このように日本刀に不可欠な玉鋼ですが、昭和8年(1933)から昭和20年(1945)にかけて奥出雲町で操業された「靖国やすくにたたら」を最後に、以後ほとんど生産されていませんでした。
 やがて作刀材料としての玉鋼は当時の残存分もほとんど底をつき、そのため日本刀製作に大きな支障が生じるとともに、伝統文化・技術の保全としても危機に直面することになりました。

 第二次世界大戦後、占領軍の没収によって途絶の危機に瀕していた日本刀を混乱から救い、これを後世に伝えることを目的として、昭和23年(1948)、当時の文部大臣の認可により公益財団法人日本美術刀剣保存協会が設立されました。以来、同協会は、美術工芸品として価値ある刀剣類の保存と公開、重要無形文化財としての日本刀の鍛錬・研磨・刀装製作技術などの保存と向上に努めてきました。
 この取り組みの一環として、同協会は昭和52年(1977)、旧「靖国鈩」を「日刀保にっとうほたたら」として復活させました。以来今日まで、日刀保たたらは日本刀材料として唯一正当なたたら製鉄による玉鋼を生産、全国の刀匠に供給しています。

 ここに、日本の伝統的製鉄技術「たたら」は復活したのです。

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