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【座席表予想図】萃香園ホテル

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SUIKOYEN HOTEL(読み方:すいこうえん ほてる)は、福岡県久留米市にある7階建ての宿泊施設です。

水と緑豊かな自然環境の中、萃香園ホテルは明治15年創業以来、皆様に親しまれてまいりました。
その伝統は、おもてなしの心を磨いてきた歴史です。

格調高い雰囲気、きめ細やかなサービス、スケール、豪華さ、設備機能ともすべて充実した“集いの場”として、充分にご活用いただけることをお約束いたします。

明治15年創業以来、格調高い雰囲気ときめ細やかなサービスで宴の時を華やかに演出しています。
大宴会場「鶴の間」や樹齢600年の藤棚に代表される広大な庭園や庭園を望む離れがあり、 国際会議や学会、レセプションなど幅広く利用されています。

お仕事、結婚式、各種宴会、ご友人との語らい、そして、ご宿泊等…やすらぎと静かなひとときを提供し、深い満足感を心ゆくまで満喫していただいております。

─ 庭園内草花・樹木一覧 ─

  • 桜(ソメイヨシノ):萃香園のお庭の象徴として老木ですが今も春には満開の花を付けてくれます(樹齢100年ほど)
  • 藤:黒木の大藤の枝分かれと伝えられています(樹齢600年ほど)
  • 楠:こちらも御神木のように萃香園のお庭のシンボルとなるほど成長しました(樹齢80年ほど)
  • モチの木・つつじ・椿・山茶花・松・マキの木・サクランボ・カイヅカイブキ・紅葉・竹・紫陽花・シャクナゲ・ヤマボウシなど

📭アクセス(住所)

所在地〒830-0013 福岡県久留米市櫛原町87
電話 / FAXTEL.0942-35-5351(代表) / FAX.0942-35-5356

「久留米駅」東口から徒歩19分👣

🚙無料駐車場 70台

🍹入場ドリンク代 なし(別途チケット)

萃香園ホテルの外観👓

フロアガイド


💺キャパシティ(最大収容人数)

立食なら最大で1,120名様までご利用できる西日本最大級のビッグスケールを誇る大宴会場「鶴の間」は、国際会議などのレセプションにも充分お使いいただけます。

その他、中・小宴会場、会議室、和室など多様な会場が揃っておりますので、

宴会や会議などの目的・人数に合わせてお選びいただけます。


⏰イベントスケジュールとチケット情報🎫

萃香園ホテルのイベント

羽柴秀吉・丹羽長秀・池田恒興 連署書状

テレビ東京系列人気番組「開運!なんでも鑑定団」に出品し、本物で新発見!300万円の評価をいただきました。

■放映日:4月9日(火)テレビ東京(福岡はテレQ)

萃香園初代当主・川村安次郎が大正6年に、親交のあった日蓮正宗品川妙光寺住職・有本廣賀より譲り受けたもので、有本氏の進呈但し書きには「真偽は定かではない」旨がありました。
今回テレビ東京系列の番組「開運!なんでも鑑定団」にて、初めて専門の方に鑑定していただき、書状が本物であるとともに、秀吉が天下人としてまさに動き出す歴史的背景や、秀吉の書状としては新発見でもあることから、大変価値が高いとの評価を頂戴しました。

当館1Fロビーでいつでもご覧いただけるよう、ショーケース展示いたします。

■解説

本能寺の変による織田信長亡き後、天正十年(一五八二年)六月、尾張国清須城にて、その後継者や領地を配分するための会議が開催された。またその翌年には、織田の勢力を二分する賤ケ岳の戦いに於いて柴田勝家に勝利した羽柴秀吉が天下人への第一歩を踏み出すこととなる。
本書状は、日本史に残るこの清須会議と賤ケ岳の戦いの間である閏(うるう)正月(一五八三年二月)に、後継者候補の一人でもあった、信長の次男・織田信雄の宿老らに宛てて書き送られたもの。
本来の書状全体が分割されており、本書状は後半部分として現存しているもので、花押は三名の直筆である。

掛軸全体:高さ1060mm、幅600mm / 連署書状自体:高さ145mm、幅500mm程度


■番組鑑定士の方による寸評まとめ

  • 羽柴秀吉、丹羽長秀、池田恒興が織田信勝の宿老に宛てた連署書状、本物である。
  • 本文、署名の部分はおそらく秀吉の家臣による祐筆(代筆)、それぞれの花押は秀吉、丹羽長秀、池田恒興の直筆。
  • 秀吉の天下取りの第一歩と言える「清洲会議」と「賤ケ岳の戦い」の間に書かれたものであり、その歴史的・資料的価値は高い。
  • 『豊臣秀吉文書集成』には収録されていない書状なので、新発見資料と言える。
  • ただ、惜しまれるのは書状の状態。
  • もとは和紙を二つ折りにして裏表に文字を書く「折紙(折り紙)」という書式で書かれていたと思われるが、依頼品は前半部分がなく、後半部分しかない。
  • 江戸時代になると、庶民の間に筆跡を愛好する趣味人が増え、歴史上の珍しい書を集めることが流行する。
    その結果、価値ある書の数を増やすために書を分断することがしばしば行われた。
    この手紙の前半が失われたのも、その結果であろう。
    これが完全で良好な状態だったら、800万円の評価が付けられる。

■年表

一五八二年(天正十年)六月二日本能寺の変  織田信長、討死
六月一三日山崎の戦い 明智光秀、討死
六月二七日清須会議 羽柴秀吉、丹羽長秀 池田恒興、柴田勝家
一五八三年四月賤ケ岳の戦い 柴田勝家、討死
八月秀吉、大阪城築城開始
一五八四年三月小牧長久手の戦い 対織田信雄・徳川家康軍
四月池田恒興、討死
一五八五年五月丹羽長秀、病死
七月秀吉、関白に就任
九月秀吉、正親町天皇より豊臣姓を賜る
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